「語彙に負荷を掛ける」ということ。

コクトーかぶれと言われようがどうでもよい。
一度くらいまともな文章をこちらに起こしておこう。

文章を書く際に匿名である必要は元々ないのだが、私生活に色々と嘴を挟まれることが厭なので、とりあえず筆名を使用している。如何に匿名掲示板であろうとも、その文体を隠すことはできないのは自明の理であるが、そもそも自分の理念として「文意を汲み取れる人間のみに理解できる文章を書く」ことを貫いているので、その延長線上に自分の文体は存在する。当然、そのためには語彙にかなりの負荷を掛けることになる。*1

具体的には「〜した」とそのまま書くのではなく、自分の中でそれを代位する表現に置き換えることなのだが、たぶん自分を知らない人間からは「わかりづらい」あるいは「訳のわからない表現」と指弾されるだろう。それこそが自分の望むところだ。
自分を知らない、いやわかっていない人間に、勝手に土足で踏み込まれたくないというのは、自我を有する人間の持つ欲求である。特に、若者はそういった欲求を強く持っているがゆえに、若者同士の間でのみ通用する表現が常に生みだされる。ただし、自分はそういう「仲間」になれるだけの語彙を持っておらず、騒ぎまくるだけの熱気もなかったので、それとは一線を置いた手法を追求せざるをえなかった。

10代、20代のうちは、まだそれをものにはできなかった。「語彙に負荷を掛ける」には、自我が強すぎたからだ。30代になって、少しはましになってきたかもしれないが、そのあたりはよくわからない。

*1:その意味で、コクトーが「語彙に負荷を掛ける」ということとは異なる