「OSSK」の扱いと経営母体について。

本来「大阪松竹少女歌劇団」(以下「OSSK」と記す)というくらいだから、『松竹演芸内報』にその関連情報が書いてあるかと思ったが、全くないのである。いくらなんでも1934年に満洲公演を実施するくらいだから、事前にそういう計画くらいは示されていようはずだがそれもない。これは大阪劇場を買収したのが(当時)兄弟会社の「千日土地興業」*1だったこともあろうし、また1933年に東西で発生した「桃色争議」の影響で東西分断政策をあえて取った可能性もある。『少女歌劇』では「大阪楽劇部」という表記が稀に見られるのはそういうことだろう。

不思議なことに、同誌 1934/5(P.38〜42)では珍しく5頁も割いて「大阪楽劇部」を取り上げているのだが、「更生」という表現が散見されるのはどういうことか。*2「松竹七十年史」ではこの時期満洲公演を行ったとの記述があるが、同記事にはそのような内容は一切触れられていない。おそらく「桃色争議」(高野山籠城)後に経営母体も事実上移管し、さらに劇団刷新のために一時的に満洲に公演に出した形にしたのか、そこまで踏み込んだ推測はできないのだが、同時期にわざわざ「SSK」が関西公演を行った意味は何なのだろうか。宝塚に対抗してという意味ではないようにも思える。
『少女歌劇』(1935/2)P.60
「OSSK」の字体がロシアアバンギャルド風でなかなかよい。「薔薇の乙女」主演は雲井八重子(右)、秋月恵美子(左)。「OSK90年史」によると「メイド役」は「当たり役」になることが多かったそうである。【爾後修正】

『少女歌劇』(1935/2)P.61
松月さゑ子(配役名は「田舎娘」とのこと)なかなか萌えますな

*1:のちの「千土地開発」→「日本ドリーム観光」。「てつ」的には設計不良で運休に追い込まれたドリームランド線で有名だが、その後の「千日デパート火災」といい、創業者没後の支配権争いといい、かなりアレな会社であった。末期はダイエーに吸収合併され法人格も消滅。

*2:さらに翌年には主力となる秋月恵美子、雲井八重子、松月さゑ子などの名前も全く触れられていない。