戦前の「パルプ工業史」を辿る(1)

去年「葦」の現地調査前に、満洲におけるパルプ工業について資料を集めてはいたのだが、同地現地訪問の結果「スカ」だったこともあってそのままお蔵入りするところだった。概要はだいたい頭のなかに入れていたが、今日会社帰りに資料を読み直し、ある程度の流れを再確認した。「パルプ工業」と書いたのも、製紙業・繊維業の両方に関わってくるためで、1930年代の日本は製紙パルプこそ樺太を中心に勃興期にあったが、人絹パルプは当時国産化がなされておらず、その量産技術確立が課題であったことを念頭に置く必要がある。

製紙業は樺太・北海道を中心に発展したのに対し、満洲ではごく限られた地域でしか発展が見られなかった。中国東北部の林産資源は決して少ないわけではないが、満洲国政府が許可を与えたのはわずかに4社。要は「財閥」の介入を嫌ったわけだが、そのために大規模工場の立地ができなかったこと、それに加えて林業統制ならびに周辺治安、樺太に比しすべてのコストが高いという問題が根底に存在した。そのため、満洲地域では林産資源に変わる代用資源として「豆桿」「葦」を原料とした製紙工場が建設されたが、両原料とも針葉樹に比べ剛度などの問題もあり一般紙には不向きであったと伝えられる。*1

ちなみに当時の日本では繊維産業の勃興に伴い、私有貨車の専用種別も苛性曹達、二硫化炭素などレーヨンビスコース法の原料を中心に発展が見られたが、満洲地域においては同専用種別のタンク車は一貫して存在しなかったことにも注目すべきであろう。
【この項 気が向いたら続く】

*1:「錦州の葦パルプ」田島正美、『紙パ技協誌』1974/4