「落語家がテレビから逃げ出した」果たしてそうなのか。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120826-00000530-san-ent

「どの時代にも、古い形を壊す人がいて、そういう人が時代を変えてきた。古典であっても、継承するだけではなく、再生する力が必要やと思います。時代をつくるのは、これからも若い人たちなんやから」(敬称略)

http://www.yoshimoto.co.jp/bunshi/main.php
関東におると「新婚さんいらっしゃい」のおっさんやないかというイメージしかなくて、落語の世界での位置づけがよくわかっていない。創作落語を200本も書いたという時点で、その凄さが頭では理解できるのだが、皮膚感覚としてまだ理解できていないのはどういうことだろうか。おそらく寄席に行けばその凄さはわかるのだろうが、新宿に末広亭というものがありながら、また「楽屋」という関係者が集まる喫茶店に幼少の頃から何度も顔を出していたにもかかわらず、一度も寄席に足を向けたことがない。それがなにに起因するかと考えてみたのだが、自分は「笑い」よりも、あまりにも黒過ぎてワロエナイ「現実」の世界が大好きだった、というのは説得力に乏しい。では「ヅカ」の世界に足を突っ込んでいるのはなぜかという問いに反論できない。つまるところ、寄席に足を向ける気になれていないだけのことである。