やっぱり「何か」が欠けている(2)

http://d.hatena.ne.jp/SY1698/20110720/ の続き。
今回は「父親追討記」のの検証をしようと思う。
「検証」作業からは手を洗ったはずなのだが、偶々目にした「重複日記」にあった表現が気になって仕方がなかったので、一通り取り上げてみる。たぶん誰もこの「追討記」を取り上げていないはずだ。
http://www.tobunken.com/diary/diary20010612183028.html

親父の2年間の闘病、つらい苦しい2年間ではあったが、考えようによっては、本来、最初に倒れたときかつぎこまれた病院で、先生から“一生植物人間になります”と断言された者が、母と豪貴の必死の看病で意識を取り戻し、あれだけ楽しみにしていた豪貴の結婚式にも、自分の半生かけたJPSの全国総会にも出席できた、その時間を最後に与えてくれた2年でもあったのである。本来死ぬべき人間に、神(を信じているわけではないけれど)が心残りをこの世に置いていかぬために与えてくれた時間ではなかったか。

http://www.tobunken.com/diary/diary20010613000000.html

収録そのものはサクサク終わり、8時30分前にアガり。岡田さんは娘さんを迎えに行く約束がある、と、自分の出番終わったあたりで先に帰る。前回西山さんを誘ったので、今回は鈴木さんも入れて、などと思っていたのだが、事情が事情。かんべんしてもらって帰宅。日記つけ、電話数本受け、食べるものが何もないので、冷蔵庫の中のクサヤの干物とエビセンベイでビール飲み、空港で買ったJALの機内食『らーめんDEスカイ』を食べて寝る。とにかくクタビレた。親父にはすまないが悲しむのは明日以降ってことで。

http://www.tobunken.com/diary/diary20010615000000.html

昨日買ったカレーパンはいらなかったか、とカバンから出すと、母が“あら、それはパパのところにあげて!”と言う。知らなかったが、親父は晩年、カレーパンが大の好物だったらしい。安っぽいものが好きな男だったのだな。偶然だったが最後の親孝行をしたということか。

「明日から寂しいだろうねえ、私」
とお袋、つぶやきながら、カニチャーハンとビールでお疲れの乾杯。昨日からずっと弁当や仕出し続きだった舌に、このチャーハンの美味だったこと。
「親父もね、こういうものが食えなくなって、鼻から栄養とるばかりで何年も生きてもつまらなかったよ。二年って丁度いい期間だったんじゃないの。結婚式も東京行きも出来たんだしさ」

と言い、しばらく、親父を東京に連れていった話で盛り上がる。あの時、変に反対して“気圧が変わると脳の血管が切れるかもしれない”と非科学的なことを言っていた輩がいたが、あそこで養生していても、あと十五年生きたわけでもなし、また、そんなんで生きる十五年に何の意味があろう。

この文章を読むだけで、唐沢俊一が実父を快く思っていなかったことが読み取れるのだが、実父の逝去に際しここまで「無情」な文章を書いた人間は寡聞である。「本来死ぬべき人間」「悲しむのは明日以降ってことで」「安っぽいものが好きな男だったのだな」「二年って丁度いい期間だったんじゃないの」とのたまい、「弁当や仕出し続きだった舌に、このチャーハンの美味だった」ことを絶賛しているようでは、周囲から眉を顰められても当然である。そう考えると「まんが極道」の「ウソつきくん」は父子関係を考える上で非常に示唆に富んでいる。
追記
読後に不快感を与える理由がわかった。
大学時代から東京で一人暮らし(無論仕送り付)、さらに(学費が高額な)薬学部に入って中退、呼び戻されて事務員として置いてやっても早々に遁走(勤め人経験は皆無)、どれだけ実父に迷惑をかけてきたんだと。実家を出てから金銭的に一切頼りませんでした、というのならわかるが、これだけ甘えてきてこの始末。20代ならまだしも、43でこの「追討」。目が点になった。