今でも十分万死の罪に価する。

産経新聞より。
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110127/fnc11012708540071-n1.htm

2011.1.27 08:54(産経新聞
日銀は27日、2000年7〜12月に開かれた金融政策決定会合の議事録を公表した。政府の反対を押し切り、ゼロ金利政策の解除を決めた8月11日の会合では、政府代表による議決延期請求に対し、速水優総裁が「その議論はかなり出ている」「これ以上議論しても、時間がかかるばかりだ」と退け、採決を強行していたことが分かった。山口泰副総裁も「常に政府の方針に従うべきなのか」「1カ月待って欲しいと政府に言われたら待つべきだというわけか」と、政府の介入に強く反発していた。
日銀は1999年2月にゼロ金利を導入。景気持ち直しが見えてきた2000年4月から解除の本格検討に入った。大手百貨店そごうの経営破綻を受け解除を見送った7月17日の会合でも、速水総裁は「金利が上がることを明るく受け取られることは間違いない」と意気込みを示していた。政府は「時期尚早」の立場からゼロ金利解除に一貫して反対で、8月会合では政府代表が「雇用・所得は引き続き厳しい状況にある」(村田吉隆大蔵総括政務次官)などの理由から、日銀法にもとづく初の議決延期請求に踏み切った。日銀の審議委員からも中原伸之氏が「(ゼロ金利解除を強行すると)日銀を含めた政策当局への不信は決定的になる」と同調したが、同氏を除く反対多数で延期請求を否決。政策金利を0・25%に引き上げるゼロ金利解除を7対2の賛成多数で可決した。
日本の景気はその後、世界的なIT(情報技術)バブルの崩壊もあって急速に悪化し、「ゼロ金利解除は失策だった」との批判が強まった。日銀は01年3月、ゼロ金利を復活させると同時に、世界でも例のない量的緩和政策の導入に追い込まれている。日銀は新日銀法に基づき、10年前の決定会合の議事録を半年ごとに公開している。

原文はこちら(全139頁)。
http://www.boj.or.jp/type/release/teiki/gijiroku/gjrk000811a.pdf
このときは前代未聞の日銀法第19条2項による議決延期要求が出されたにもかかわらず、それを強行採決して恥じなかった。更に声明は言い訳づくりに終始。
中原伸之氏を除く連中は本当にクソだった。*1
この意味を分かっているのかと氏がくどいほど念押ししていたにもかかわらず、ようやってくれたわ。その罪は万死に値するし、速水優汪兆銘のごとく墓を爆破されてもまだ足りない。

*1:議事録を見て自分はそういう印象を受けたのだが、すでに当時FRBバーナンキ理事(当時)が「日銀幹部は1人(中原伸之審議委員)を除いてゴミだ」と発言している。そりゃそうだよなw この言葉は暗黒卿高橋洋一)氏も著書「さらば財務省!」で引いているほどの有名な言葉だ。