相変わらず鋭い視点だ(小田嶋隆氏)

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100922/216342/

自転車で都内を走っていると、町の底流に苛立ちが蓄積している感じを、ひしひしと感じる。若い連中は、チマチマさせられ、脱構築し、草食化し、サラダ化させられ、萎び菜っ葉化し、その実、とても苛立っている。当然だ。だって、彼らは前の世代の身勝手な若者たちに、よってたかってコケにされているわけだから。
不良少年というのは、そもそも社会や家族や自分自身や、いずれにしても自分にかかわりのある何かに不満をいだいているからこそ非行化の道を選んだ子供たちで、その意味では苛立っていて当然の存在ではある。事実、ジェームス・ディーンの時代から、不良は必ず時に思いつめた表情を浮かべていたものだった。若干の自己演出を含んだ態度であったとはいえ。

下放完了後、東京に戻ってきた時の空気の悪さを言い当てている。今はもっと悪くなっているわけで、それにどう言及すればいいのか自分もよくわからない。

格差を容認する思想の背景には、職を失うことへの恐怖心こそが勤労意欲の源なのだということを信じる勝ち組経済人の鉄血式経営哲学がある。叩き上げの勝利者や、成り上がりの成功者は、往々にして、生まれつきのお坊ちゃまよりも残酷になる。というのも、彼を上昇せしめたのは、自らのスパルタンな精神性と努力であって、決して運やめぐりあわせではないと、少なくとも本人はそう信じ込んでいるからだ。とすれば、彼の目から見て、他人の貧困はモロな自己責任であり、他社の不運や不幸は努力不足以外のナニモノでもないということになる。 彼らの主張は、煎じ詰めれば「オレを見習え」ということに尽きている。実際、その種の経済人の著書を読むとはじめから最後まで、「オレを見ろ」という以外のことは何も書かれていない。

餃子の王将はともかく、Nidecの創業者*1が持て囃される事自体が間違っている。京セラの創業者が社長*2だった頃は、佐高信が「従業員の墓がある会社なんておかしい、あれは『狂セラ』だ」と会社名を出して非難していたが、今やそういう言葉は2chの「ブラック企業偏差値総覧」でしか見られない*3という現状をどう考えればいいのか。

*1:=現社長。

*2:=還俗坊主転じて「沈んだ太陽」会長。

*3:つまり、マスコミが報道すらしないということだ。