「西武球団」のルーツを探る。

西武球団の前身たる「福岡野球」に光を当ててみる。
今でこそ、西日本鉄道は「福岡県第二の税金」もとへ「日本最大のバス事業者」として知られているが、球団を持っていた頃は、鉄道事業の売り上げの過半を、今は亡き「北九州市内線」「福岡市内線」の軌道線が上げていたことは意外に知られていない。大牟田線と甘木線大宰府線と宮地岳線を足しても、それより市内線の乗客が多かったという時代があったというわけだ。
昭和40年代、西鉄球団は「西鉄黄金時代」の主力の衰えに加え「黒い霧」事件で壊滅的なダメージを受けた。まあ、そういう状況下で、西鉄にとってもお荷物となりつつあったわけで、その後、球団は太平洋クラブ、クラウンライターを経由して、西武鉄道(コクド)へ事実上経営権が譲渡されることになる。
というわけで、1979年に「西武ライオンズ」が成立したわけだが、そのために西武鉄道はさまざまな手を打った。狭山湖駅のそばに巨大な球場を建設し、駅を改造し、試合開催時は臨時列車を沿線各地から運行するようにした。*1チームカラーも今までのものを払拭するため、ユニフォームも取替え、イメージキャラクターは手塚治虫に依頼し*2、さらに選手も西鉄時代のイメージの強い選手を悉く叩き出し、当時阪神でピークを過ぎつつあった田淵をトレードで呼び入れ*3、松沼兄弟などの傘下の「プリンスホテル野球部」出身選手を新戦力として確保し、戦力の下支えを図った。
そこまでの「設備投資」をしてきたのだ。
今でこそ、野球場はかなりレベルの高いものが増えてきたが、1979年という時期を考えてみれば、あの球場の設備は、関東圏では随一といえた。後楽園、神宮球場川崎球場と比較すれば、との話だが、それは当時では読みきれなかったのだから仕方がない。
ましてや、所沢近辺は、ベッドタウン化の進行で人口が増えていたわけだし、チームが強くなれば、必然的に沿線利用客も増える、という読みがあったわけだ。事実、1982年にリーグ優勝、日本一となってから、沿線での認知度は非常に上がってきていた。そして、1985年には秋山幸二が台頭し、1986年にはPL学園より清原和博が入団し、同年の新人王に輝く。

*1:ここまで本格的な「野球ダイヤ」を組んだのは、関東では西武鉄道が唯一である

*2:ジャングル大帝」の焼き直しと言うな

*3:そのために主力選手を叩き出した