日本の組織が求める「体育会的」性質。

唐沢俊一検証blogより、気になるものを見つけた。
http://web.archive.org/web/20050212204235/www.t3.rim.or.jp/~goito/otato-R1.html
●オタクという主体の問題

東 だからオタクの人の組織の作り方を見てみましょう、自分の律し方を見てみましょう、ということですよ。そうすると、趣味の世界に閉じこもっていると思われがちなオタクたちが、実は、もろ「実社会」の日本型会社組織や官僚組織を、見事に戯画化して反復して、しかもそこから抜け出すことができていないのがあちこちで観察できる。

●オタクと「ホモソシアル」

東 ちょっと大きく考えてみようか。たとえば日本の会社ではまあ、女性は基本的に排除されたうえで、妻を家庭に押し込めて、サラリーマンの性的欲望はソープか何かで適当に解消されるという状態がある。そこでは組織の活力は体育会系的な、男性同士の奇妙な連帯感で支えられている。それは明らかに疑似同性愛的なものなんだけど、同性愛そのものの自覚は逆に徹底的に禁じられている。女嫌いと同性愛恐怖がまざりあったこの状態を、専門用語で「ホモソシアル」と言うんです。日本社会はこの意味で、明らかにホモソシアル社会です。

●オタク集団の問題

東 さらに言えば問題は、同性愛的な連帯意識を一方で抱きながら、しかもの原因を自分では認めたくない、そいうねじれはえてして集団を閉鎖的で権威的なものにしやすいということ。その点でオタク社会は確かに体育会的なんだな。とにかく業界全体に、縄張り意識が強いでしょ。

●オタクとナショナリズム
伊藤 そうすると、オタクを社会とは無縁のところで、自分の趣味に没頭してる存在だとするのは間違いだってことになるね。
東  そうなんだよ。そして繰り返すけど、問題はオタクたちが自分たちのやっていることの意味に気づいていないこと。その無自覚が非常に怖い。
伊藤 反論として、それではなぜいけないのかというのが想定されるけど。
東 現にオタク文化は行き詰まっているわけでしょ? 自覚がないと、人は古いことしか反復できない。岡田斗司夫は八〇年代初頭の消費社会の言説を繰り返しているだけだと、僕は以前に言ったことがあるけれど、あれは正確じゃなかった、もっと古い。高度経済成長期の日本だけが持てた幻想があるとして、それが七〇年代の真ん中ぐらいで決定的に失われた。オタクはその喪失に耐えられず、昔の「美しかった」日本を文化祭的に反復している。

あとこれも読んでおくとなおよろし。
http://web.archive.org/web/20050404115021/http://www.t3.rim.or.jp/~goito/indexx.html
10年以上前の文章で、一部実態にそぐわない部分があるとはいえ*1、かなり本質を言い当てている。前に「鉄と801の間には、深くて暗い河がある」と言った覚えがあるが、まさにそれ。男女間の「壁」というのもそうだし、あとジャンルそのものの問題とかもそうなのだが、それは日本の組織自身が志向してきた「(似非)体育会的」体質にも根ざしている。端的に言えば「上意下達」と「議論を許さない」体質。日本の組織は多かれ少なかれそういう「ホモソーシャル」的側面があって、それから意図的に身を引き剥がさないと取り込まれてしまう。学生時代の部活動におけるそういう体質への違和感を感じたのが自分の原点といえるが、それは社会人になっても全く変わらず今に至っている。特に近年はその傾向が強い。

*1:「日本の会社」を指した部分はかなり大雑把な部分がある。「サラリーマンの性的欲望はソープか何かで適当に解消」ではなく、むしろ女性は「仕事そのもの」に期待はされずに、「恋愛対象」となって「家庭に入るか」、そうならずに「居残るか」、あるいは極度に「同化」するかのいずれかであろう。