かつて、中野ブロードウェイにある「タコシェ」に販売委託を試みたことがあって(書泉経由のルートが開拓できたのですぐ引き揚げた)、そのときに言われた「これはサブカルではない」という言葉を忘れることはできない。たしかに同店の方向性とは明らかに違ったものだからそれは当然ではあるのだが、このエントリを見てやっとその疑問が氷解した。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/soichiromatsutani/20130904-00027832/
この「サブカル」には、概してオタク文化が包含されないからだ。この言葉は、巧妙にオタク文化と差異化して使用され続けられている。つまり、非オタク的なポップカルチャー(あるいはそれらを好む人びと)が、“サブカル”とされている。
「サブカル」そのものが「ヲタ」に対する差別構造を維持しようとする*1ところに一種のスノビズムを孕んでいる。その構造は1990年代において顕著だったが、生憎わたしは重度の「てつ」であったためにそういう構造すら気付かず、ひたすら後ろ指されつつ(なぜか大学時代は準体育系に籍を置いていたから)突っ走っていったのだった。
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/09/09/120646
サブカルの指向の先は承認欲求の充実と社会的成功だが、ヲタクの指向の先には自己充実がある。ヲタクの内向きのベクトルに比較してサブカルは外向きのベクトルが強い。外向きのベクトルは承認されればカヒミにでも坂口綾優でも成れるが、達成できなければ単なる「痛い」人になってしまう。ヲタクは自己の知識欲のままに趣味のままに突き進むから「痛さ」は関係が無い。
いや、周囲から承認されないまま突き進むのだって、若い時分は非常に「痛み」を感じるのだが(それがあるから「ヲタ」は場をわきまえて自らの中身を開陳する)、「内向き」であることに変わりはないし、その承認欲求は「ぼくを驚かせてごらん」とディアギレフに言われたコクトー*2のように、常軌を逸した突拍子もない方向に突き進むのである。そこに何もないことがわかっていても、おそらくやる。*3
前述した「サブカル」の内側に潜むスノビズムは、おそらく仲間内の閉ざされた世界における「自意識」の相対的な優位性を確保できるか否かということにしか傾注させない。たとえ「文学」「芸術」という衣を被ろうと、本質的な部分は変わらない。そしてそこには変わらず「恋愛」という形をとった承認欲求、つまりは「リア充」と言われるようになった言葉が張り付いている。もし「サブカル」が死んだとすれば、その表皮と真皮の内側に巣食う、スノビズムの痛痒感が「サブカルチャー」を弄んだ人間の中身を殺したのだ。
カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生
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