「毀」と「貶」しかない。

戦後を築く重要政策の決定に立ち会い、憲法9条改正に慎重な保守本流ハト派でもあった元首相の宮沢喜一氏が28日午後1時16分、老衰のため東京の自宅で死去した。87歳だった。東京都出身。葬儀は7月1日正午から港区南青山2の33の20の青山葬儀所で密葬で行われる。喪主は妻庸子さん。連合国との戦争状態を終結させるサンフランシスコ講和会議にも出席、日本が回復する原動力となった高度経済成長をリードし、戦後政治の「生き証人」と呼ばれた。今年2月、政界関係者の会合に車いすで出席したのが、公の場での最後の姿となった。自民党は後日、内閣との合同葬を行う方向で検討している。
宮沢氏は1919年10月生まれ。東大法学部卒業後、42年旧大蔵省に入った。参院議員を経て67年衆院旧広島3区に転じ、連続12回当選した。62年、池田内閣の経済企画庁長官として初入閣、以後、通産、外務、大蔵などの主要閣僚を歴任した。91年10月に第15代自民党総裁、翌11月に第78代首相に就任した。

よく「毀誉褒貶が激しい」というが、それは故松岡某のような人物に向けられるべき言葉であって、故宮澤某の場合は「毀」と「貶」しかなかった。総理になってみれば、不良債権処理に手をつけられず「失われた10年」を作り上げたばかりか、自民党長期政権に引導を渡し、「負の記念碑」となったというわけで、自らを「エリート」と自認していただけに、周囲以上に当人が不本意であったことは想像に難くない。
でもねぇ、引退前から「地元には何もしてくれない」ともっぱらの評判で。これは中曽根某にも言えることなのだが。*1田中角栄浦佐)や大野伴睦岐阜羽島)のように、新幹線の駅前に銅像でも残してみやがれ。
あと、さらに言うなら、「東大卒以外は人にあらず」という態度を取り続けたのが、最大の失策かも。見かけの割には、人当たりは最悪だったようで。そりゃ「誉」「褒」がないわけだ。

*1:政治家として残したものが、吾妻線末端区間無人駅と、長野新幹線安中榛名駅だけ。おまけに後者はリクリート事件の余波で、ドブ板選挙の末に作った。