名岐進撃作戦 (日中貿易史篇)




久々にこちらの続き。前から気になっていたことがあり、実地調査を行いたいとはかねがね考えていた。夜行バスで名古屋に着いてから、少し別の場所に足を伸ばし、それからバスに乗り換えて長良橋に向かう。岐阜公園の北側にはこのような中国式庭園があり、杭州市長の碑文がある。これがいわゆる「日中不再戦碑文交換」の碑文で、岐阜市側のが西湖沿いにあるというが、本題はそれだけではない。



「満蒙開拓青少年義勇隊栗田中隊」の慰霊塔(拓魂碑)が存在するとは思わなかった。公園内を見たところ、第4回(1941)栗田中隊、第6回(1943)横山中隊、第7回(1944)田中中隊の碑が存在するようで、それ以外についてはどこにあるかを突き止める作業も必要なのだが、少し明かりが差しつつあるように思える。特に第8回(1945)の「拓魂碑」が存在するか否かが鍵を握る。 →「岐阜県満洲開拓史」によると、第8回は北海道での所外訓練中に敗戦を迎えたので渡満はしていない