「岐阜県満洲開拓史」に名前はなかった

今まで何度か調べてみたのだが「岐阜県満洲開拓史」に名前がなかったことは何を意味するのだろうか。同書は「満蒙開拓移民事業」に関わった移民家族名・出身地のすべてを掲載している。調査対象者の苗字は県内一部地域に集中する特徴的なものであるが、一切その表記が見られない。そもそも「満蒙開拓移民事業」は農村更生計画に基づき山間部を中心に移民が輩出されており、平野部出身者の割合は少ない。岐阜県の満蒙開拓青少年義勇軍は第8回まで組成されているが、第8回は北海道での所外訓練中に敗戦を迎え渡満はしておらず、碑文がないのも当然のことである。

僕は八路軍の少年兵だった―中国人民解放軍での十年間 (光人社NF文庫)

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そう考えると、青少年義勇軍の最後の世代は、山口盈文氏(1929年生)であり、それ以後ということはありえず、山岸重治氏(1931年生)のように、1940〜1941年前後に一家で移住したパターンしか残らない。なぜなら、高等小学校を卒業後、内原研修所での集団生活を送ってから渡満するからだ (渡満年齢は14〜15歳で、13歳を下回ることは決してない。1945年に内原に入営しても渡満前に終戦を迎えたので、1944年内に内原入りしていなければならない)。そうなると的を絞ることが事実上不可能であり、またも(╯°□°)╯︵ ┻━┻ 状態に追い込まれてしまうのである。