「出会い」に焦るな、昔のわたしもそうだった

前にどこかで書いていたような気はするのだが、おそらく断片的な記述しかないので、どこかでこの際まとめておこうかと思った。

どうしても若いときは、自分と同世代の人間を見るにいろいろな比較をしてしまうものである。あいつには彼女がいるいないとかそんなレベルの話。学生ならいいのだが、社会人になるともっといたたまれない気持ちになったあの頃を思い出す。
すでに1990年代には、どこの企業も「出会いマシーン」としての役割を放棄したので、「自力救済」以外に出会いの道はなくなっていた。職場環境に依存するのもおかしな話で、自分の所属する組織(会社でも部活でも)以外での関係性を確保することが第一になろうか。「料理教室」「フラワーアート」「ボランティア」 というのが「三種の神器」とは言うたものだが、興味本位で逝くのが吉。少なくともそれを目的に「ギラギラ」する必要はない。
http://news.mynavi.jp/column/rikei/439/index.html
女性の推奨する「可愛い子」があてにならないのと同様、男性が推奨する「いいヤツ」もあてにならないのは指摘の通り。ただし、女性は「関係性」の生物だから、その「眼力」に頼るというのも一つの手だ。なんどか「おばちゃんの目」という譬え話を出したおぼえがあるが、少なくとも性格面が自分に合っているかを判断する助けになる。わたしの「濁った目」は、それを見抜く力はない。

「市郊列車」をきっかけにするのは僥倖の極みであって、他人が真似できるものではない。最終的にはお互いの人間性に収斂するのだが、そもそも自分が本当に恋愛をしたいのかどうか、いわゆる「恋に恋する」あるいは「他人との比較」で恋愛の道に踏み込んでもいいことはない。

わたしが過去に失敗してきたのは、そもそものきっかけが間違っていたからだ、つまり自分自身を理解できぬまま踏み出しても何の意味もない。まずは、もっと自分自身に自信をもつことから始めるべきなのではないかと思うが、わたしでさえ七転八倒な困難な存在ゆえ、やっと見えてきたのはここ数年の話なのでそれを具体的な形で落としこむことは困難である。断片的なことの積み重ねで、それを他人に理解させることが不可能に近いのは、おそらく表現力が悪いせいだ