若松車輌の最期。

http://d.hatena.ne.jp/SY1698/20120328 の続き。
かつて貨車専業メーカーとして隆盛を誇った若松車輌だが、その末期は寿都鉄道もかくやという悲惨な状況であった。1960年代には本店所在地を東京に移し(国鉄受注対策であったと考えられる)、日本鉄道車両輸出組合の会員社であったほどだが、1970年代からの国鉄貨物衰退に加え、地元回帰したものの今度は新日鐵を筆頭に鉄鋼メーカーの「鉄冷え」により、1985年に呆気無く和議申請し倒産。

昭和60年(コ)第7号
北九州市若松区北湊町6番1号
申立人(債務者)若松車輌株式会社 右代表者代表取締役 今村一郎
一、主文 債務者若松車輌株式会社に対し和議手続を開始する(以下略)
【1985.10.18官報 第17607号 P.24】

その後、和議条件に従い弁済を続けていたものの(一時期は生産能力が逼迫した川崎重工業の下請けでコンテナ車を製造していた)、1995年前後にまたも資金繰りが悪化、結局1998年に自己破産を申請し、2005年に破産廃止し法人格は消滅している。

平成10年(フ)第600号
北九州市若松区北湊町6番1号
破産者 若松車輌株式会社
1決定年月日 平成17年4月8日
2主文 本件破産を廃止する
3理由の要領 破産財団をもって破産手続きの費用を償うに足りない。
【2005.04.25官報 号外第91号 P.52】

では倒産当時の代表者であった今村一郎はどうなったかというと、2001年に逝去後、相続財産管理人が選任されたのが6年後の話である。ある意味、会社以上に代表者本人が相続人も現れないで放置プレーという悲惨な最期を遂げたわけだが、そもそも1985年の時点で若松車輌、今村製作所合わせて数十億の負債を抱えた状況で、誰が負の遺産の相続をしようというのか。

相続財産管理人の選任
次の被相続人について、相続人のあることが明らかでないので、その相続財産の管理人を次のとおり選任した。

平成19年(家)第9005号
東京都中野区本町2丁目46番1号
申立人 株式会社整理回収機構
本籍福岡県北九州市若松区修多羅1丁目767番地、最後の住所福岡県北九州市若松区東畑町4番36号、死亡の場所北九州市若松区、死亡年月日平成13年1月13日、出生の場所三潴郡大野島村2529番地、出生年月日大正7年6月18日、職業不明
被相続人亡今村一郎
【2007.04.13官報 号外第77号 P.81】

ちなみに、兄弟会社の今村製作所は和議手続の中で債務を若松車輌に移管したこともあって、職権による清算登記はなされたものの、今なお死にきれぬまま「現在事項証明書」が取得可能な事態となっている。
【補記】
どう考えてもこの事例、1985年に和議申請せずにそのまま破産させていれば実は傷口が浅くて済んだかもしれない。というのも、若松車輌跡地の半分はショッピングセンターになっており(半分は更地)、もしこの段階であれだけまとまった土地の出物があれば、買い叩かれたにせよ余計な出血は避けられた可能性はある。
あと、負債総額50億というが、実際は破産に移行したから免除前の金額が負債としてカウントされているだけで、和議条件通りの負債カットが70〜80%前後だから実質的な負債は10〜15億前後のはず。債権者宛の文書が残っていればそこが判明するのだが、あいにく「和議法」は債権者と債務者の「和議」が目的の法律だったから、和議開始されればそれが不調に終わって「和議廃止→自己破産」に至らない限り、そこから裁判所の手を離れてしまうのだ。

【爾後更新】続きはこちらへ (若松車輌の黄昏)
http://d.hatena.ne.jp/SY1698/20160331 (1)
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