創作における人物造形

創作における人物造形というのが一番難しい。
自分という枠を抜けることが難しいのはいうまでもないが、あえてそこから抜けるには人物観察や今迄の人生で接点を持った人間をいかに織り込むかが鍵になるし、またそこまでに調べてきた、読んできたことを織り込むのもなかなか手間がかかる。歴史短編にしたのも、数々の調べ物を無理なく自分の世界観に取り込みための手法である。歴史背景をきちんと押さえていれば、作品の破綻は避けられる。いかに荒唐無稽に見えても、その背景が事実に準拠するものであれば、読んでいてつらくなるということはない。
その上で、登場人物をいかに動かすかという問題もあるのだが、これとばかりは書いてみないとわからない面がある。自分でもやってみてわかったのだが、これがイメージできないと、まとめるまでの作業が苦行になる。出来上がればどうということはないといえ、こんな苦労はするものではない。プロット書かんとつらい
人物造形において課題となるのは、その人物がどういう生活を営み、またどういう振る舞いをするかという点にある。そういう意味では、昔の新聞記事の生活面は面白い。歴史の狭間に埋もれた数々の人物像をいかに描き出すか、それが創作の愉しみでもあり苦しみでもある。人物造形の訓練ができていない場合は、自分の未経験の領域にある分野の作品を研究するのは有用だ。例えば、男性が女性を主人公にした作品を作る場合、女流文学作品を読み込む作業は必須となる。今迄そういう作品はあまり読まなかったのだが、この作業はかなり役に立った。

男性作家の書く女性

渡辺淳一の「失楽園」「愛の流刑地」へのツッコミどころをあげたらキリはないが、三島由紀夫「音楽」もかなり女性の描き方は読んでいてつらいものがある。むしろ、大正時代を描いた作品であるにもかかわらず幸田文「きもの」の三姉妹の造形が今尚時代性を失わないのはなぜか。逆に同作品の結びである結婚後の初夜の場面が唐突な印象を受けるのだが、それでも「愛の流刑地」における女性描写に比べれば雲泥の差である。
前にどこかで書いたが、女性の本質は関係性にあり、作者自身の思いを暴走させるとおかしなことになるわけで、それが自分に幸田文作品を読ませるきっかけとなった。
男性が女性を作品に登場させる場合、過度な思い入れ(劣情ともいう)は避けねばならない。それが渡辺淳一作品に対する違和感にもつながっていたのだ。連載当時の裁判画面を読んでなにこのグダグダさに閉口したのを思い出した

異性を描く場合の表現抑制

横田濱夫「はみ出し銀行マンの恋愛日記」で主人公が女性と夜の城ヶ島に忍び込むという場面に影響されてむかし一人で城ヶ島公園に忍び込んだこともあったが、あと宮脇俊三「殺意の風景」で不倫関係にある女性を殺そうとしながらその体の線が出る服装に目のやり場が困った記述とか、そういう自らの感情を認識しながらもそれをどう抑えようかという葛藤がむしろ男性が描くべき女性像であろう。
その点女性のほうがむしろ容赦なく、幸田文「きもの」では、市電に乗っていたらぶっかけられた話を書き出したり、山崎豊子作品におけるベッドシーンの多さなど、視点が違うから仕方がないのだが、これを男性が下手に書くと「愛の流刑地」になっちまうのでやらないに越したことはない