「いいこ」でいる必要性なんてないんだ

http://ameblo.jp/nishida-ai/entry-12075938468.html (いいこになりたかったね)
http://ameblo.jp/nishida-ai/entry-12076197982.html (時空旅行を夢見てる)
西田藍さんのblogを読んでふと思ったこと。「いいこ」でいることはつらい。

子供の頃はおそらく「万能感」であふれている。それがいつの間にか、集団生活という局面でほころびを迎えてくるのは決して遠くはない。給食が食べられないだとか、冗談が通じなくてからかわれるだとか、本当にそんなレベルの話だ。さらに疾病(アレルギー症状)まで抱えている自分に気づいたときには、もはや「万能感」などなくて、残されたものはわずかな「可能性」でしかなかった。

もし、自分に「勉強が得意」だという感覚すらなかったらどうだっただろうか。それすらなかったら、家でも学校でも居場所なんかなかっただろう。存在価値の指標は「点数」であり「空気を読む」ことなんか家庭だけでも十分すぎた。こんなわけで、中学校になったら「点数はよいが協調性がない」という烙印を押されて、それでも気合で受けた高校全部入ったものの、思春期に入って悶々とした自分が癒やされることなどなかった。
表面上は「いいこ」で反抗期などないと言われた。そりゃ親を殴り殺す程度の反抗期などなかったわ。「生活費の支給元」たる親は「常に恩を感じるべき存在」であり、口応えなど許されるものではなかった。

就活を始めた年は、就職氷河期世代の一年目だった。内定はもらえず、かといって深夜になれば酔っ払った親に延々と説教され、かろうじてもらった内定も「あっちのほうがよかった」と落ちた会社の名前を延々と出される始末だった。同期の人間は自分とまったく違う世界の人間が多く(コミュ障なんで)慣れるのに苦労したが、自分の自由になる給料が入ったことが大きかった。初任配置希望は「遠隔地に出してくれ」ということで、それはすぐに叶えられた。ふつう、都心勤務希望が多いのに。

その後の自分は、20年を経てますます「ヨゴレ」な人間になっていった。鬱になりかけたり(「殺意に燃えれば鬱にはならない」というのは持論だ)、周囲からドン引きされるようなこともやったり、そんな人間でも子を持ってみて、自分と同じような人生を歩むんだろうか、子育てしててキレそうになったりしているのだが、少なくとも自分は子供に「万能感」など期待していない。「手のかかる」子供であるのは拭いがたい事実だが、「いいこ」でいたっていつか躓く日が来るのだ。