「女性王国」の原型たる「女工王国」

しかしながら女工王国の紡績にとっては、実にこの一小部分のストライキさえなかなかおそろしいものであって、以上の引例中ほとんど女工の敗けを知らない位だ。(細井和喜蔵「女工哀史岩波文庫1980年版 p.365)

女性を中心とした争議は「女工哀史」が発刊された1925年前後の大正期でも多発していた事実に着目したい。男性中心の争議に失敗が多かったのに比べると(活動家が入りやすかったからだろうな)、女性中心の争議が成功しやすかったのはどういう理由だろうか。ひとえにその職場の直接労働力が女性依存的であったとしても、事の発端が極めて些細な事案だったからこそ「手打ち」しやすかったのもあるかもしれない。
そう考えると、1933年に東西双方で「桃色争議」を起こされた松竹が、翌1934年の松竹楽劇部(OSK)満洲公演で「女性王国」という演目をなぜ選んだのだろうかという疑問はますます拭えない。当初は「ずいぶんご都合主義的な脚本だな」という見方をしていたのだが、その前年に「桃色争議」があったのにそれを連想させるような題材をよく会社側が許容したと思う。事実、その演目は自分が発掘するまで歴史の底に埋もれていたのだが*1、あえて「自虐ネタ」にして時代性を取ったのだとすれば、また見方が変わってくる。たかが一公演といえども時代背景を掘り下げるとますます泥沼にいやなんでもないw

*1:主演目である「春のをどり」は、肥田皓三「松竹歌劇団の足跡」にてこれをほぼそのまま持っていったことだけは判明している。「京鹿子娘道成寺」(きょうがのこむすめどうじょうじ)は歌舞伎演目の一つ。浅学なもので読み方さえよくわかっていなかった。ただし「女性王国」については満洲日報の当時の特集記事を拾い上げてやっと判明した次第で、公式史ではその存在は判然としていなかった