「満洲ベアリング」→「瓦房店軸承集団」。

中国大手軸受メーカーの「瓦房店軸承集団」が満州国時代の「満洲ベアリング」に由来していることは意外と知られていない。同社は東洋ベアリング(NTN)が戦前に瓦房店市に建設した工場で、中国における一大軸受メーカーとして知られている。では同社が「日中貿易史」とどのように関連しているのかというと、同社公式サイトの「発展歴程-文革期間」を参照されたい。
http://www.zwz-bearing.com/group/intro/develop5.asp

瓦軸廠在十年「文化大革命」期間、「内乱」厳重。1966年下半年,原廠部機関部分群衆、張貼了瓦軸厂第一張「炮打司令部」的大字報、従而掲開了這箇廠「内乱」的序幕、同年10月、出現了「踢開党委鬧革命」的口号、全厂各単位紛紛成立造反組織。廠党委和生産指揮機構全面瘫痪。
1967年上半年,瓦軸廠各群衆組織之間,展開了激烈的「奪権」斗争。為「奪権」而引発了武斗、為加強本派組織的実力、各派群衆組織開始到当地駐軍搶槍、先后搶回歩槍400余支、軽重機槍30余挺、手榴弾及子弾若干箱、先后共発生武斗事件5起、致使6名職工死亡、多人受傷、全廠停産。

中国における「文革」というのは一種の黒歴史で「四人組」に全責任を押し付ける構造であるが故にかなり誇張した表現が見られるとはいえ、工場に拳銃や機関銃、手榴弾まで置きますかねw そんな状況で「軸受」生産などできようもない。

当時生産されたC50型敞車の台車は平軸受で、1977年まで生産されたというのだからおよそ当時の状況が推察できよう。すでに中国の鉄鋼業は、銑鉄工程偏重型で鋼板の自給すら困難な状況であったのだから、軸受用特殊鋼の生産に手が回ろうはずもない。そうなると自ずから当時の輸出品目は限定されよう。
ただし、もう一つの疑義がある。1978年以後の輸組報輸出統計(この年度より品種別が公表されている)では、中国向輸出品目は「輪軸等」がほとんどである。これをどう説明すべきであろうか。
これについては、軸受メーカー社史(日本精工あるいは光洋精工[ジェイテクト])が当時の事情を説明している。一つ目は、1960年代後半の米国向輸出摩擦を避けるために欧州・中国向輸出が増加したこと。二つ目は、1970年代に共産圏向を中心に軸受プラントそのものを輸出したこと。光洋精工は1975年に中国技術進口公司経由でジャーナルベアリング製造設備を輸出している(これは瓦房店向けではないが)。そうしたことから考えると、プラント輸出による自給能力の増強に伴い、軸受単体の輸出そのものが消失したという事が考えられる。
(本項つづく - 気が向けば)