この罪は「不作為」か「殺意を抱くこと」か

とはいっても、個人的に死んで欲しい人間なんぞ(公人クラスではない、私人クラスでさえ)指を折って数え上げることが出来る程度にぼくの感性は腐っている。目の前にホームレスがいれば「誰がコインシェーカーに金なんぞやるか」、募金なんぞ未だかつてやったためしなどない。少なくともぼくはその程度には利己主義である。いやそうではない。ぼくがこんな意固地ななった文章を書くのは、おそらくぼく自身の生い立ちあるいは、強烈な被害者意識なのだろうか。

目の前に妊婦或いは子連れがいれば席くらいは譲るようになったし、土日なら混んでいない限り極力優先席に座らないようにする。*1ただし、この「押し付けられた感覚」への妙な反駁心はなんだろうか。そう、それはぼくが責任感を持つべきことではない。むしろ、そういう「感覚」を持った人間の善意に全てを押し付ける「責任放棄の世紀」が原因なのだ。

*1:この感覚がわかりづらいかもしれないが、関西圏で優先席に座るというのはある種の軽蔑を受ける行為であるし、路線によっては終日女性専用車などというものもあったりする。関東圏の感覚でものを考えてはいけないのだ。