「OSK満洲公演」の記録発見。

昨日、国会図書館新聞資料館にて「満州日報」1934年5月1日〜6月2日のマイクロフィッシュを眺めて(リールを回して)、幻と呼ばれた「OSK満洲公演」*1に関する記事を収集することができた。4月より資料調査を行なってきたが、OSK満洲公演に関する内容は、OSK研究の大家である岡本澄氏、肥田皓三氏をもっても明らかにされていなかった。ただし、両氏に細かい一点の事象のみを研究させるのも酷な話ではあるので、その先行研究に「満洲の港湾」で培った歴史資料研究手法*2を投入することで、今まで誰も踏み込まなかった戦前の少女歌劇史に研究に一石を投じることができるかもしれない。

昭和九年は、一月が「踊る一九三四年」、三月が「春のおどり」第九回、これには梅園竜子、ベティ稲田、松島詩子が特別出演して”さくら音頭”八景を上演、五月には、二十二日神戸出帆のウラル丸で満洲へ出張、各地の公演をしてきた。「松竹少女歌劇50年のあゆみ」(松竹歌劇団/国書刊行会 1978)

OSKに関する記述は、松竹本社から経営が離れていた時期もあり、当時刊行されていた「松竹演芸内報」でも一切触れられておらず、また同社が当時刊行していた少女歌劇雑誌はそのほとんどが散逸しており*3、断片的に刊行された少女歌劇雑誌を閲覧するだけでは意味がないという結論に至った。時期的には秩父宮訪満を控えた時期であり、これに合わせて海外公演を組んだのか、それとも海外慰問的な位置づけであったのかがよくわからなかった。

そこで、当時の新聞ではどのような扱いを受けていたのかを調べるため、満洲における主要紙であった「満洲日報」を一ヶ月間眺めることとした。結論から書くと、1934年5月26日〜30日の5日間にわたって大連で海外公演が実施された。日程は下記の通り。

05/22 神戸港出帆(うらる丸)
05/23 門司港経由
05/25 大連港入港
05/26 大連公演:オペレッタ『女性王国』所作事『京鹿子娘道成寺』レビュー『春のおどり』
05/27 公演
05/28 満鉄村上理事と招待会、終了後公演(席割変更により一部座席の値下げ)*4
05/29 公演
05/30 午後「女学生デー」、終了後一般公演(千秋楽)
05/31 大連港出帆
06/03 神戸港帰着

主催は日満観光社、後援は南満洲鉄道、大阪商船となっており、まごうことなき海外公演である。この広告は「満洲日報」1934年5月22日、25日、27日、29日に存在する。この時期は「桃色争議」の影響で飛鳥明子等のスターを欠いていた時期であったが、大阪劇場改装を前にして、当時人気絶頂を誇っていた「東京松竹少女歌劇団」を関西公演に充てて、OSKを満洲公演に回すことなのだが、それにしてもこの時期よく海外公演を組んだものだと驚かされる。宝塚歌劇団が海外公演(という名の慰問公演)を組むのは、それから5年先の1939年のことである。*5

チケット料金は26日〜27日が2円50銭、28日〜30日が特等2円50銭、一等2円、二等1円50銭。日満観光社の商売がヘタを打ったか、公演中に料金を変更するという愚を犯したが、それを除いた部分については現地ではおおむね好意的であった。「今までインチキレビュウのほかに見たことのない」*6大連市民にとっては、チケット料金は高嶺の花であったとはいえ、日本三大少女歌劇団の一つが来たわけだから当然の話である。この海外公演は、松竹少女歌劇団の台湾公演につながっており非常に貴重な重要な位置を占めるが、やっとこの存在を発見することができた。

論考は色々あるが、日をあらためて記載する。まずはご一報まで。

*1:「OSK」の略称は戦後から使用されたもので、それ以前は「松竹少女楽劇部」「大阪松竹少女歌劇団」などと呼ばれてきた。経営母体も松竹、千日土地興業〜ドリーム観光、近畿日本鉄道など変遷を続けたが、現在一般的な呼称である「OSK」で表記する。

*2:「リールを回せば何かが見える」とばかりに、しらみつぶしに資料を眺めること。

*3:国会図書館所蔵は「少女歌劇」の一部でそれもキネマ旬報社より後年寄贈されたものであり、全巻所蔵しているのは早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、略称「演博」のみ。「松竹演芸内報」は国会図書館に所蔵なく、演博のみの所蔵。

*4:5/29付日満観光社の広告には「座席はまるでガラあきです!」というひどい値下げ催告が見られる。もう少しものの言い方もあるだろうが。

*5:ドイツ・イタリア・ポーランド公演と、米国公演が有名。ただし前者は寄港地である上海・シンガポールなどで慰問公演を行なっており、その政治関係性と採算性を考えるに「海外公演」と言えるものではない。それ以外に同年には北支慰問も実施されており、宝塚歌劇団の「時局への迎合性」が目立っている。

*6:満洲日報」1934年5月28日