南満洲鉄道と港湾の研究(備忘録)

もともと大連甘井子石炭埠頭の実地調査から始まり、それに関連して羅津港と葫蘆島港関連の整備資料をかき集めていたのだが、実際これらの港はどのように活用されたか、先行研究の有無について調べたところ、かなり有用な調査論文が出てきた。趣味の一環として調べられる題材ではないことが判明し恐懼の極みではあるが、備忘録として概要を書いていく。
港湾整備は、大連甘井子石炭埠頭はともかく、羅津と葫蘆島については当時の地政学的要因が大いに作用している。羅津は清津、雄基と競合し、葫蘆島は営口、河北、秦皇島と競合していた。これらの港湾が着目されるようになったのは、大連港中心主義が1938〜1940年に滞貨問題を引き起こしたからではあるが*1、滞貨問題そのものは労働問題であり、港湾労務者の不足を強権的に統制経済に組み込もうとした結果、皮肉にも大連港一港主義が加速されることとなった。戦後、これらの港湾のうち、大連甘井子石炭埠頭は80年にわたり自動化設備を全うすることができたが、葫蘆島は日本人引揚港として使用された後軍港に転用され、羅津は北朝鮮領となったため長らく整備もされていなかったが、その地政学的存在から中国の手により今後整備が進むのではなかろうかと考えている。

南満洲鉄道会社の研究

南満洲鉄道会社の研究

満鉄労働史の研究

満鉄労働史の研究

労働問題から満洲を考えるというのは重要である。
労働者斡旋会社「大東公司」、港湾労働者管理会社「福昌華工」成立後、前述した大連港滞貨問題の影響で大東公司満州労工協会との統合により北支方面より流入する労務者を制限する役割から、不足する労務者を確保する役割へその姿を変えようとしていた。それは「労務興国会」の成立に関わってくるのだが*2、すでに労務者不足の問題は抜き差しならず、福昌華工自身自力で労務者を確保できず、関東州労務協会経由でどうにか人員を確保できるという状態であった。*3 港湾労働者の定着率悪化は募集費等のコストを増加させ、それは港湾損益の悪化につながっている。*4
こうした事象は、実は近年における「民工」確保難とつながっている。内陸部の経済発展により、沿海部の出稼ぎ労働者の確保が近年難しくなっていることから、企業の内陸部ならびに近隣諸国への移動を伴っていることを指摘しておきたい。ただし、これを論じるには資料のさらなる読み込みも必要だと思うので、一旦ここで筆を置く。

*1:葫蘆島の場合は北票・阜新新邱砿からの積出港としての役割も大きい。

*2:満洲日々新聞」1939.04.25「転換期に当面せる労務問題」より

*3:「満鉄労働史の研究」第6章大連埠頭、柳沢遊

*4:「南満洲鉄道会社の研究」第2章満洲国期における満洲の港湾、風間秀人