「疎開」の果てに「棄民」。

備忘録として。
北満への疎開があったとははじめて聞いた。まさに「蒼氓」以来の「棄民」の伝統。
http://www.k3.dion.ne.jp/~bochu/kenkyu3.html


六月七日の項目では、佳木斯駅頭で見た(北満へ疎開する内地戦災者の群れ)として次のように記されている。
「牡丹江方面からの列車が入ってきた。 そこで図らずも、いま思い出しても旨の痛む光景を、目のあたりに目撃するめぐり合わせになった。 列車が停まって大勢の客がぞろぞろ降りてくる。 当たり前な話だが、この日、佳木斯駅に降りた客の何割かは当たり前の旅行者ではなかった。私は客観的情勢がここまで煮詰まってしまった段階で、まさかこんな無残な、無責任な措置がとられていようとは創造してみたこともなかったし、誰からも聞かされていなかっただけに、よけいショックが大きかったわけだが、降りても改札口へ急がず、すぐ団体らしいなとわかる一群の人たちは、内地からの移民団であった。 本土空襲の罹災者たちだという。 総勢100名を越えるぐらいの人数と見受けた。 かれらの内地での、追いつめられた暮らしが思いやられる身なりと荷物。 多くは子供連れである。 満拓が世話している限り、行く先、落ちつく先(落ち行く先?)があることは確かなのだろうが、到底入植者といった雰囲気ではない。 それこそ風呂敷包片手といった夜逃げのような姿で、こんな異郷のはてにまで連れて来なくても何とかしてあげようはあったのではなかろうか、といった惻隠の情をいよいよ抑え難いものにするのである。 いざというときーーそう遠い先のこととは思えない満州国瓦解の局面でーーこの人たちは、地理もわきまえず、言葉もまだ通じないのに、足手まといの多い身でどうすることかと、私は空しく見送るにしのびない気持ちであった。 たまたま佳木斯駅で、線路ひとつへだてたプラットホームに降り立つのをこの目でみた、気の毒な一群の人たちに、どういう運命がまっていたろうか。 関東軍背走の際、この人たちのあいだからいちばん多くの犠牲者を生じたのではなかったろうか。助かっていればいいがというより、私にはほとんど冥福を祈るという気持ちでしか、あの一群の、名もしらぬ男・女・子供たちの姿を思い出すことができない。 内地で戦災にあい、さらに終戦二月前に公的機関の手で北満に移された人々を、よくよく運の悪い人たちだといっただけではすまされないはずである。」