「鉄壁の財務体質」北越急行 (3)

http://d.hatena.ne.jp/SY1698/20150118 のつづき。

「線路のない時刻表」新潮社 (1986)
北越北線工事誌」鉄建公団東京支社/関東支社 (1998)
ほくほく線の十年」北越急行 (2008)

例のものを書くにあたって (また現地指導を行う前に)、歴史的背景を知らなければ書けるはずもないのでNDLに行き軽く見てきた。宮脇俊三氏はかつてあの「鍋立山トンネル」の現場にも入っていたとは驚きだ。この工事が完成したのは取材当時から15年を経た1995年...

「鉄骨の支柱が内側に歪んでいる。ガサっと泥岩が欠けて落ちて、足もとにころがってくる。山が動いているのであろう。気持のいいものではない」*1

また、新潟県第三セクター鉄道の設立には当時消極的だったのは事実だが、道路も整備された平野部と、一度積雪に覆われれば大迂回を強いられる山間部とは鉄道路線への渇望度合いも異なろう。それが沿線17自治体を結束させ、田中角栄の力をもって「第三セクター方式しかない」と言わせしめた原動力でもあろう。
通史は「ほくほく線の十年」が詳しく、工事内容については「北越北線工事誌」が詳しい。なにしろ800頁の約10%を「鍋立山トンネル」に費やしているのだから。

写真のミニベンチ工法でさえもこの始末だったという。

変更当初はショートベンチ工法での変位量の1/3〜1/2であったものの、33km225m〜240m間で上半切羽の押出し、核部の崩壊、支保工の座屈等により、掘削断面の縮小に至る大変状となった。この時の最大土圧は135tf/㎡を記録している」*2

あと総工費であるが、内訳が前掲書(p.9)にある。AB線 102,603百万円 (うちずい道費 60,839百万円)、高規格 25,460百万円。詳細はもう少し検証する必要があるが、第13期決算で実施した圧縮記帳額にほぼ見合う。

*1:「白き湖底の町にて」『線路のない時刻表』新潮社, p.45

*2:北越北線工事誌」p.166

「寿都町史」に見る寿都鉄道

http://d.hatena.ne.jp/SY1698/20150126 のつづき
寿都町史」(寿都町, 1987) に見る寿都鉄道の記述は断片的ではあるが、同社の経営が戦後一貫して危機的水準にあったことを伝える。「各駅貨物発着調」(p.140) では、1953年度の寿都駅からの発送が24,770t (一日あたり67t=ワム車換算4〜5両/日)、「各駅乗降客調」(p.141)では、乗降客平均が寿都駅で238人/日。こういう状況で鉄道を維持できようはずもない。
さらに「昭和43年度」の項目には

また、この議会で協議の結果、寿都鉄道対策のために、特別委員会を設けることとなった。寿都鉄道は、町の損失補償*1によって運転資金を借り入れて以来、事業をバス、ハイヤー、砕石コンクリート製造部門に絞り、人員整理、赤字の鉄道の休業などにより体質改善に努めてきた。しかしいまだに新線建設着工に至らないため、議会では、今後更に寿鉄対策を検討する必要があるとして、特別委員会を設置することに、なったものと説明している。*2

*1:「債務保証」の誤りであろう。ただし、町が一企業に債務保証するということがあるのか不明瞭。

*2:前掲書, p.308-309