「五月祭」とはなんぞ。

満洲雑暦」(満洲日々新聞社 1939)という書籍がある。

五月五日の端午の節句に、雄々しい鯉幟が胡沙吹く満洲の風にひるがへって日本男子の意気を見せてゐるのは誠にたのもしい限りであるが、昭和四年から毎年五月中旬の日曜日に、大連運動場で「五月祭り」が催され、全市の日満女性とや若い婦人たちが、メポール・ダンスを中心に、楽しい踊りに一日を送ることとなってゐる。このおまつりは、英国のメーデーになぞらへたものということで辞典には次のように記されている。

メーデー 五朔節(五月一日、往時の祝祭日にして英国にては山櫨の花枝を採集し来り、村内一の美少女を五月女王として花冠を戴かせ、またメーポール−花又はその他布片等にて装飾せる柱−を樹て、その周りを跳舞して歓楽したり、今日にてはこの日社会運動、労働運動等の示威運動行わる)五月祭、労働祭。(P.75〜76)

「五月祭」は「メーデー」由来とは。( ̄д ̄)エー
そもそもは「OSK満洲公演」調査時の「満洲日報」に、五月祭に関する記事が出ておりその存在は気になっていたのだが、何しろこれを裏付ける資料まで調べきれていなかった。英国の「五月祭」をそのまま持ち込んだのか。あるいは「労働者の日」という連想を避けるために敢えてこういう形にしたか。ちなみに1934年の「五月祭」は海軍記念日である5月27日に開催された。