「心中物」を現代で演じる意味は何か。


というわけで相変わらずの日本青年館で「近松 恋の道行」。
「和物」自体の公演機会が減っているとはいえ、「心中物」なので少し抵抗があった。年齢層が高いという話はさておき、第二部開演前に後の席でデブジェンヌの話をしていたのがすごく気になったw
ストーリーの破綻はないし(ただし第一部で方向性が見えてしまっているので残りをどう描くかという疑問は別の観客がぼそっとつぶやいたのは聞いた)、演出も効果的ではあるのだが、現代に「心中物」を演じる意味はどこにあるのだろうかという疑問は拭えなかった。「オネーギン」同様「近松恋の道行」は原作を読み込んだ上でうまく再構成しているのだが、それこそが古典を演じる難しさなのだろう。「心中物」を煽る結果となった近松門左衛門の苦悩と、「死に行くもの」が「死に損ない」を助けるのを書いたのは正しいのだが、もはや「心中物」を原作のまま演じること自体に普遍性がないということになる。*1
いや、最後のほうの五兵衛(汝鳥伶)と嘉平次(愛音羽麗)とのやり取りなんて、まさに「人情物」の極みで、深読みすればするほど素晴らしい演出。それと近松門左衛門夏美よう)の存在感が際立っている。色々書いていけばきりはないのだが、これだけは書かねばなるまい。

*1:渡辺淳一の「失楽園」「愛の流刑地」などに一定の支持がある以上、一概に言えないのかもしれないが、女性からの支持を得るかは疑問。