8年前のこの台詞があまりにも痛い。

http://www.tobunken.com/diary/diary20020514000000.html

なぜ耳をふさぎたくなったか、理由がわかった。今の伯父のこの口調は、二十数年前、大学を勝手に休学して親がそれを変に思って電話をかけてきたときの、私の口調にそっくりなのだ。あのときの私も、相手をなんとかごまかそうと、頭に思いつくことを全部べらべらとしゃべり、しゃべりながら次のウソを頭の中で組み立てていた。一族の中で、一番この伯父の血を濃く引いているのは私である。

(中略)

私は光り輝いていた時代の彼を尊敬していたし、向こうも実の息子より私のことをかっていてくれた。伯父がその性格で親類一党から総スカンをくったときも、私は彼についていた。芸というものに対する一種の尊敬の念があったからだし、小市民的な一族の異端として、芸能界に飛び込み、一時とはいえ大輪の花を咲かせたその才能は大したものだ、とこれは心底思っていた。だが、その才能を、彼は磨くことをせず、育てていこうとせず、人気におぼれ、先を読まず、時代を読まず、そして忘れられていった。

自分語りをするとあまりにもシャレにならない唐沢俊一であるが、これはあまりにも痛い発言である。当時は伯父を嫌悪してこのような内容を書いていたようだが、そういう言葉はいつか自分に返ってくるということを考えなかったのだろうか。
人生40年近く生きていれば、表立って言えないことは多々あるし(過去に若気の至りでそういう事を書いてblog等を潰しているし、抑留末期は「毒62」エントリに呪詛を書き連ねていたが)、個人の名前を出してそういうことを書くのはやめたほうがいいと誰も忠告しなかったのだろうか。「笑い」に昇華できていれば何ら問題はなかったが、それがないとただの陰口になる。また、陰口は必ずその本人に伝わるものだ。いくら故人になったとはいえ、それを遺族が読むということは考えなかったのだろうか。それを考えると、読んでいてあまりにも痛いものがあった。
本当に公開できない(世に憚る)ものは、オフラインのメモ帳に書きつけておくべきだった。