電車の名を借りた電機 (263F)


なんとなく投下してみる。そういえば先代は債務免除益を出したところに行ったんだっけか。いつの間にかこの型式も数が減ってしまっており、じきに地方に足を運ばねば見られなくなりそうな予感。この沿線では昔野球準急があった頃に何度か行ったきりだったのだが、一橋学園折返しも本町信号場もなくなってしまうとは思わなかった。

グンマー軍政部布告 (薬師寺氏の選挙戦)


前に示唆を受けた件についてついでに調べてきたが、やはりこういう情報はNDLとて万能ではない。ただし当時の選挙戦の雰囲気を紙面で感じ取ることはできる。その中でわかったのは、なぜか九州より鉄骨作業請負で流れ着いてきた某氏が、大勲位衆議院に転じた時期の県議選に出てたり、鬼石町誌 (1984) の功労者表彰 (p.1105, 1112) に名を連ねている。1959年時点で商工会長を務め、さらに公益資金寄付 (プール・公民館建設資金) でも表彰されとる。「薬師寺一馬記念プール (公民館)」とでも名付けられてたらギャグの域だが、これ見るだけだと後々あの会社に転じるとは想像もつかない。

上武鉄道補遺


日本ニッケル多野鉱山については、鬼石町誌 (p.574-577) に選鉱場等の施設を建設して寄付したとの覚書あり。また、上武鉄道は鉄道業末期の時点で売上高が10〜20億円もあったというのに、東商信用録に記載がなかった。兄弟会社の上武産業は記載があったが、砂利砕石・コンクリート製品販売となっている。したがって、上武鉄道の本業は (消去法による推論だが) 産廃収集運搬業の線が強くなる。鉄道廃止前で固定資産はわずか1億円程度の会社なのだ。それが破綻を迎えるまでの動きは謎が多いので、さらに資料の読み込みが必要だろう。

日中貿易史補遺 (朝陽貿易)

非上場会社の調査に当たっては、帝国データバンクより東京商工リサーチの企業録 (信用録) がカバーする範囲が広いのは意外に知られていない。それにしてもだ、創業わずか2年弱の会社までカバーしているとは思わなかった。1970年版に朝陽貿易の名前があり、さらに大株主には野村貿易の社長を務めた植田喜代治氏の名前がある。日立造船が大株主であったことは前に調べたが、そうなると設立背景もまたちがったものが見えてくる。あるいは西日本貿易からの独立を図るにあたり、野村貿易日立造船のバックアップを受けたのだろうか、今となっては聞き取りようのないことだが。こちらはタイ進出に関する内容だが、植田喜代治氏の名前がある。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/28/2/28_41/_pdf