「頼る」のは「頼られる」の裏返し

むかしの自分を見ているような感じでよくわかる。コミュ障気味だと他人に頼ることすらできなかったりするので。他人に頼ることすらできないのにはまた色々理由があるが、頼りどころさえ押さえればなんとかなるという経験を積まないと難しい。近年までそれがわからず苦労した。逆にこちらも「頼られる」経験を積む必要があるのだが、何が頼りにされているかは、いまだによくわからない。むしろ「頼りにされている」というよりは「言いやすい」という側面があるのは事実。

なんでこんなことを思ったかというと「言いやすいから言うんだね」という自分の問いに「頭ごなしに人の意見を否定することがないからです」と返されたからである。そういえば、自分は部下持ちの分際にしては珍しく「ちょっと話があるんですが」と個室に連行されて即答困難な話を聞かされたりするんだが いやそれは毎日の生活で鍛えられているとかそういうこと言わない、人の意見を聞かない人間にそもそも相談など持ちかけはしない。相談を持ちかけられてもきちんとした答えなんぞ導き出せはしないのだけど、それでも「聞いてくれる」から話してくれるというのはあるのかもしれない。その逆に、自分がテンパったときには色々相談した覚えもあったりするので、それが「頼る」のは「頼られる」の裏返しなのかなあと思ったりしたり。まあ、察するのはド下手なんだけど、言ってくれれば手は考える人なんでw

あと、これは家族などに限らないのだが、時折厳しいことを言うのって、ある種の期待の裏返しなんですかねえ。要求されるレベルが高いとか思ったりもしなくないけど、その期待にどこまで応えられているかわからないなあ。