「五月祭」の最期はいつか

有報のリールを回すのはだいぶ慣れたが、新聞のリールを回すのは非常につらい。今日は「満州日報」「満洲日日新聞」のリールを都合9本回してきたのだが、年を追って時局的な紙面が増えてくるのを見るとなかなかくるものがある。とりあえず「五月祭」は1929/5からはじまり、1938/5までは「満洲日日新聞」で記事が追えるのだが、1938/12に本社を奉天に移転しているのでそれからがよくわからない。事実、1940/5〜1943/5までのリールを回してみたが影も形もないのは当然のことである。もっとも、時局柄「女性の祭典」とか言っていられる状況でもなくなったのは事実であろう。

「五月祭り」を飾る勇壮・戦線の歌 彌生高女生が放送
全満銃後の人々の心へ、戦線に活躍する戦士の血みどろの息吹をふきこみ、最前線と銃後の連携を更にガッチリするため、本社が特に選んだ石森延男氏作歌、園山民平氏作曲の「戦線の歌」は是*1関東軍新聞班においてもその優秀性を認め軍推薦として全満各層に贈ることとなったが、来る十五日大連運動場において挙行される大連市主催の五月祭当日、選ばれた彌生高等女学校生徒十名が場内のマイクを通じて数千の参加大衆にこの「戦線の歌」を伝へることになった。露営の歌、進軍の歌に比し更に実感と迫力のあるこの歌の内容は「砲撃の歌」「突撃の歌」「空軍の歌」の三部に別れ、左の如き歌詞である(満洲日日新聞 1938.05.10 日刊5面)

これはむしろ辻田真佐憲氏の守備範囲であり、わたしが語る術を持たないのだが、同日の記事には「時局色も濃厚に賑わう大連神社春祭り」とあり、この辺りを境目に「五月祭」は他の時局的なイベントに吸収される形で消滅したのではないかと考えられる。

日本の軍歌 国民的音楽の歴史 (幻冬舎新書)

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*1:原文文字が潰れて判読しづらい