「ジッドはこう逝った」。

白洲次郎氏は毛唐に事寄せてこういう言い方をするのを嫌ったというが、自分もこういう言い方はあまり好みではない。それ以前の問題で、自分の私淑する人間の言葉を、最低限自分の思想に通底する範囲でしか引用することはない。まあこれは、知ったかりをして「〜はこう逝った」と抜かす馬鹿に対する強烈な非難であることは言うまでもないわけだが。
まあ個人的には、ジッドなんぞ持ち出すのなら「生きているジッド」にある守旧派への非難あるいは「馬遊びをしていた子供が馬になったようなものだ」(「山師トマ」をジッドが評した言葉)という表現を援用するか、その程度にはひねった使い方が必要ではあるが。