「乳房がモチーフ」パルコ名古屋、その他つらつら

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パルコの各店の導線まで含めた設計には増田通二が口を出した (名古屋店で清水建設が泣きを入れたとまで言われた) 話は有名なのだが、この際こちらにもまとめておこう。

増田通二「開幕ベルは鳴った」(東京新聞出版局) p.155に清水グループPDS西川創が以下の文章を寄せている。「新所沢では、なぜか修道院がテーマになりました」「女性の裸体は神の創作の最高傑作であるとして、名古屋パルコB棟では、ついに乳房がモチーフになりました」と書いてある。泣きを入れた記述は前掲書p.152「確か1987(昭和62)年の初冬、箱根の山での三日間不眠不休の合宿が続き、疲労困憊したころ、増田通二会長(当時)がついに『これでいくか』とつぶやかれました」とにかく設計屋泣かせだったのは知られていたが、当事者に書かせるかw

なお、この増田通二自伝「開幕ベルは鳴った」、いくら自伝とはいえ、時系列が前後して入り組んでいるのであまり読みやすい代物ではなく、立石泰典「漂流する経営―堤清二セゾングループ」のほうがよほど事実関係を押さえている。

 

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こちらが「僧院」をイメージした新所沢パルコ。2016年には「翔んで埼玉」のプロモーションを行ったことでも一部には有名。今はニトリなども入ってしまっているが、そもそもパルコの業態が専門店を束ねるものだからある意味まちがいではない (ファッション性はおそろしく薄いが「第四山の手」を志向した郊外店としての位置づけであり、これも他店とはまたちがった位置づけ)

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https://www.10plus1.jp/monthly/2010/09/1.php

https://www.10plus1.jp/monthly/2010/10/2.php

https://www.10plus1.jp/monthly/2010/11/9-3.php

新所沢パルコについてはこちらを参照。パルコは増田通二が退任するまでは「アクロス」というマーケティング誌を自前で作り、かつ各店の導線まで含めた設計まで会長自ら口を出したのは、前述のとおり。このあたりは流通系の中では出色であった。

なお、著者の藤村龍至にはこの記事をツイで言及した後、素知らぬ顔でなぜかぶろっこされているのだが、一切悪意を持った表現はないわけで、まあそこは著者の度量が知れるよねw「おまえここ初めてか 力抜けよ」

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本来の祖業の地はこちら「東京丸物」前進の池袋店。その後渋谷に進出したのだが、およそあれほどの立地条件最悪な場所を「街」として作り上げたのは、西武百貨店本体ではできず、増田通二の存在あってこそのもので、むしろその手法は西武百貨店に移入されたというべきである (堤清二糸井重里との関係) 

というのが「もう一つのセゾンの歴史」には書かなかったあたりの基礎部分。これだけ書いたら蛇足の極みになるから、わずか数行の注釈しかつけなかったのだけども、そのあたりを踏まえているかいないかというのは、やはり大きいと思うのです。