「若さの延長」ですらない「薄暗さ」とは

ぼくの中では若さが延長されている。若さは深く沈み込み、うまく落ちついていない。そのためにぼくは、老年の中で道に迷った若者のような、または、もはや自分のものでなくなった年齢の中で道に迷っている老人のような姿をする始末となっている。
「苦しみについて」コクトー『存在困難』秋山和夫訳 (p.94)

http://toianna.blog.fc2.com/blog-entry-70.html
前に書いたとおり、自分自身の年齢というのを感覚的に理解できてない面はあるのだが、だからといって若さそのものに対して全面的な価値は置いていない。自分はこういう女性を数多くこなす僥倖に恵まれなかったが、もはやそれを羨ましいと思えるほど肉体的に若くないことくらいはわかっている。鏡で自分の顔を見たら、そこには疲れ果てたおっさんの顔がいるわけだし、そんなおっさんと会話をして相手にウザがられないかという不安も持っている。

しかし、鏡に写った自分の年齢を意識することがなかったら、そういう「薄暗さ」を抱えていたのではないか。鏡で自分の顔を眺めるのは他人を不快にさせないためというある種の緊張感だけであるが、それが若い頃のように自己陶酔しかない場合、おそらく「永遠の28歳」のまま、飯を貢ぐ人生を歩んでいたのかもしれない。