「自分の考え」は表に出さない

http://www.webasta.jp/serial/senreidiary/post-66.php (文月悠光「洗礼ダイアリー」)

女性の「淑やかさ」「従順さ」は何よりの美徳とされている。だが、精神科医斎藤環さんの対談集『母と娘はなぜこじれるのか』によれば、こうした女性教育は分裂を含むという。「身体においては他者の欲望をより惹き付ける存在であれ」という命令。一方で「自分の欲望は放棄せよ」という命令。この分裂したメッセージは、同じ女である母親から娘へ伝えられる。献身的な母親(支配)と、母親に罪悪感を抱く娘(被支配)の間に、身体性はくすぶり続ける。

ここで言及される「セクハラ屑野郎」(なんでサブカル界隈にはそういう屑が出没するのだ) のことはどうでもいいのでさて措いて (実はそれ自体は主題ではないように思われる) この文章を見た時、ふとこんなことを思い出した。

「しっかりした自分の意見を持っているなら言えばええやん」「でもわたしの立場は相対的に弱いので」「言わなければ損やないか」「そこまで皆が言いたいことばかりいうのも...」という堂々巡り。でも、わたしの考えは「逃げない」ことを義務付けられすぎてはいないだろうか。むしろ、敢えてそれを表に出さずに「本音を汲み上げる」のも技法としては正解なのではなかろうか。

この議論におそらく正解はないし、アドバイスなど無用だったのだ (女性の話にアドバイスが無意味なのは、そういうこと) とはいえ、その理解のできなさというものに少し心惹かれる自分がいる。どんなに逆立ちしたって、そこに寄り添うことなんてできようもないのにな。
(ちょっと難しい論題なので、少しまとめてから書き直してみた)