コミュニケーション能力の本質とは

「コミュニケーション」と強調する人間に限ってそれができてないだろという話。
さっき連続投下したものをまとめなおしてみた。えれえ長文だなおいw

これはこういう意義があるから「なにがなんでもやってくれ」という本気とそれを担保する鋼の処理能力がなければ何の意味もないし、相手に要求するものではない。極論すれば「一言あるかないか」それだけでだいぶちがう。一度失われた前向きな気持ちを復活させるには多大な労力を要し、さらに相談する相手もいなければ、コップの水が溢れ出すようにいきなり何もできなくなる。

「相手の話を聞けばいいんでしょ」というのもまた本質をとらえてなくて、相談するに至った背景を読んだ上でその瘴気を吐き出させて「気楽になってもらう」ところにある。おそらく相手もすぐに解決ができないことはわかっており、その中でなしうる手法を考えて相手の疑いを解いていくところにある。なにかしろというアドバイスが無意味なのはそこにあり (男女関係ない)、無傷で高所から下すアドバイスに意味などない。

「瘴気」を受けるとどうしても相手を庇護すべき弱者として扱いがちなのだが、そうではなく前向きな気持ちを持たせる言い方を考える難しさがある。「笑い」によるガス抜きを図れれば最善だが、不用意に相手を笑うような表現は避けることだ。(→ こちらを参照) 理想は自分をネタにすることだが、それが無理でも信頼を掴めれば上等。あと、口は堅いに越したことはない。「伝わっても仕方ないこと」「あまり言ってほしくなさそうなこと」「本人が決して語らないこと」をいかに切り分けて情報の制御をするかが鍵となる。

コミュニケーション能力は「類推」する力も含まれる。相談を受けることは「学びの姿勢」がないと無理である。受けるほうがどれだけしんどいか。本人が語る「断片的」な事象から読み取らなければならず、それは貸借対照表だけの決算公告から経営状況を割るようなものだ。

結局、コミュニケーションという言葉を誤解している人間は、その本質を理解していないし、そういう輩に誰が相談するだろうか。安易に横文字を使ってドヤ顔をし、何でもペラペラしゃべり倒すことがコミュニケーションだと抜かす輩は
三清教育隊に送れ」