「校風物語」工藤恒と高畠華宵


(「校風物語 淑徳女学校の巻」工藤恒/高畠華宵『少女画報』1931/9 p.50)
こちらの続編。大阪国際児童文学館に複写請求かけたものが郵送されてきた。同誌に連載されていた「校風物語」の挿絵は、1931/6までが深谷美保子、1931/8以降が高畠華宵と考えられる。ただし同時期に連載されていた「女学校詩」は1932/1では松本かつぢに切り替わっているので、高畠華宵の全盛期を少し過ぎたあたりであろうか。1931/8の「校風物語」、1931/10の「女学校詩」原画は弥生美術館で見ているが、雑誌と同寸なのでかなり小さい。

同時代の挿絵画家の中でも高畠華宵の存在感は突出しているが、それがかえって仇となってブームを過ぎた戦中戦後は顧みられることが少なかったことは知られているが、それ以上に掲載誌である『少女画報』自体の散逸も激しいし、「校風物語」を書いた工藤恒など歴史の底に完全に埋もれている。「校風物語」とはどういうものかというと、タイアップ企画的な小説というべきもので、各女学校の実名を出した(ここ重要)短編小説であった。だからこそ文学的には評価されていないのだが、今こそ再評価すべきであろう。だいたい、西条八十がタイアップ歌詞を大量に撒き散らして歴史に名を残しながら、それと同じことを文筆家がやると再評価さえされないとはどういうことか。実際、戦前の随筆小説の類って雑誌そのものが散逸しているからどこにいったかわからなくなっているので、この辺りも課題となろう。

なお、高畠華宵の挿絵はNDL所蔵案件の中では、15(3)(4)(5)(8)[1926]、17(4)(5)[1928]がある。大阪国際児童文学館の目次を見る限りだとかなりの号数を保有しているのだが、1931〜1934にかけての欠落が激しい。もっとも活躍の時期を考えるにそれ以前の号のほうが挿絵などが多いので、この辺りを中心にあたっていくのがいいかもしれない。