「オリエ津阪」の項目ができてましたよ

http://d.hatena.ne.jp/SY1698/comment/20131011 の続き
戦前はSSK(SKD)のツートップとして水の江瀧子とならぶ人気を誇った津阪織枝(オリエ津阪)の項目はWikipediaにすらなかったのだが、いつのまにかできてたyo!
それも存命だったのか!!!*1
戦前歌劇史を当たれば必ず出てくるこの名前、それなのに松竹歌劇団史(SSK/OSK)を調べている人間が極度に少なく、ググってもちどりせんせとわたしのどちらかにしかぶち当たらない*2という悲惨な状況が長らく続いていたので、まとめてくださった方に感謝するしかない。厳密には1961年たけふ菊人形の「オリエ津坂と大阪少女歌劇団」グランド・レビュー「新竜宮物語」(全13景)が実質的には最後の公演となるのだろうか。*3
『少女歌劇』(1936/12)
時代を80年先走った「山ガール」オリエ津阪の御姿をここに

(爾後更新)
このあたりは当時の書籍を読めばわかるのだが、古川緑波向田邦子がこうしてきちんと書いていたこともたぶんその背景が理解できないと「???(・・;」ということになるのだろう。今の宝塚で「掛声禁止」というのはこうしたところから来ているのかな

一月十三日(土曜)
家で、伊馬鵜平にたのまれた、「レヴィウ オヴ レヴィウ」の原稿、「原秀子論」を三枚書いた。浅草へ来たがまだ早いので、常盤座の「キートンの麦酒王」をのぞく、二三場面見てつまらんと分ったので出て、松竹座の日本舞踊ばかりの「春のをどり」を見る、きれいだが、それっきり。一回終り、上海亭で食事した。今日はラク夢声は本日より日劇でもうやってる、こっちを休み。二回終って、又松竹座へ行き、「中尉さんと花売娘」のおしまひの方を見る、弥次・掛声の盛なること驚くべく、三階で女の声、「ターキー/\」と言へば、又反対党が「ツサカ/\オリエ/\」と喧嘩だ。ハネ後「水戸黄門」の稽古、随分ハメを外した脚本だ。

(古川緑波古川ロッパ昭和日記』1934.01.13)

*1:逝去が確認できてない可能性もある。

*2:どっちもOSK史を主軸としているから、戦後の踏み込みが浅いのはご勘弁ください。

*3:http://www.city.echizen.lg.jp/office/060/050/kikuningyourekisi_d/fil/kikuningyourekisi.pdf