「機帆船」徴用の暗黒史とは。

http://www.47news.jp/47topics/e/258477.php
皇后陛下 宮内記者会の質問に回答記事より抜粋

まだ若い東宮妃であった頃、当時の東宮大夫から、著者が私にも目を通して欲しいと送って来られたという一冊の本を見せられました。長くシベリアに抑留されていた人の歌集で、中でも、帰国への期待をつのらせる中、今年も 早蕨 (さわらび) が 羊歯 (シダ) になって春が過ぎていくという一首が特に悲しく、この時以来、抑留者や外地で終戦を迎えた開拓民のこと、その人たちの引き揚げ後も続いた苦労等に、心を向けるようになりました。

最近新聞で、自らもハバロフスクで抑留生活を送った人が、十余年を費やしてシベリア抑留中の死者の名前、死亡場所等、出来る限り正確な名簿を作り終えて亡くなった記事を読み、心を打たれました。戦争を経験した人や遺族それぞれの上に、長い戦後の日々があったことを改めて思います。

第二次大戦では、島々を含む日本本土でも百万に近い人が亡くなりました。又、信じられない数の民間の船が徴用され、六万に及ぶ民間人の船員が、軍人や軍属、物資を運ぶ途上で船を沈められ亡くなっていることを、昭和四十六年に観音崎で行われた慰霊祭で知り、その後陛下とご一緒に何度かその場所を訪ねました。戦後七〇年の来年は、大勢の人たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います。

海運・港湾関係の社史を見るとだいたい「徴用」の末に物故したという話が多く東洋埠頭社友会編「社友たちの戦後50年」1995にもそういう話が出てくる。「ええ金儲けの話がありまっせ」と騙されて軍属にされたらボコボコ船は沈むわ、という有様で、戦後どないしようかと思ったら東洋埠頭 (日満倉庫) が拾ってくれたというエピソードは強烈である。あるいは日塩「日塩五十年史」のように、大陸から戎克で決死の塩輸送とか狂気の沙汰も極まれりということまでやってのけた話まであるわけで、こういう形でも言及せねば死んでも浮かばれまい (軍属だからまた遺族年金等の扱いで不利を受けたという話もよう聞きますわね) 「死んでも許さじ」というのなら、船会社「うちの子を返して(´;ω;`)」 戦時徴用された民間船舶の戦時補償の深すぎる闇 で紹介されたように
「戦時補償に対する課税率100%」というゲスさの極み
「戦時補償特別措置法」があって、特にNYKは横浜にある記念館が怨嗟の塊という。

【おすすめ】
「艦これ」なんて目じゃないぜ @Kojimamo さんの「ドボク鎮守府
http://togetter.com/id/Kojimamo
徴用船とは関係ないが「ぼくは八路軍の少年兵だった」「十三歳の関東軍少年兵」も必読。

増補版 13歳の関東軍兵士

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僕は八路軍の少年兵だった

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